中越地震発生後の活動記録

社団法人 小出青年会議所 インタビュー

直前理事長  桑原 雄一郎 君


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中越地震発生

 

 

初動時期(発生〜3日目)

初動時期にはボランティアセンターがなかったため小出JCとしての活動はほとんど無かった。

市役所にボランティア活動の申し入れをしたが、避難所への食料供給等は市の職員で行っているので、ボランティアの必要は無いとのことで断られた。

この時期の小出青年会議所は何をすればよいか分からず、右往左往している状況だった。何をすればよいか分からなかったので、直接避難所に出向き、被災者から現状で困っていることを聞き出した。その結果、ストーブが欲しいとの声があったのでストーブを避難所に提供した。初動時期にはその程度しか活動しなかった。

 また、この時期はそれぞれのメンバーが消防団員、建設業者、資機材納入業者等として活動していたので、青年会議所としての活動にはならなかった

 

 

応急復旧時期(4日目〜3週間)
ボランティアセンターが立ち上がってからはボラセンの運営に携わった。
ボラセンの活動としては初めにニーズ調査を行なった。被災住民のボランティアに対する不信感を拭い去るため、魚沼市役所から被災地域の区長に、社会福祉協議会から民生委員にボラセンの説明をしてもらった。我々は被災地域に出向き、一軒一軒まわってボランティアの説明を行ない、ニーズの確認をした。
問題点:
ボラセン事務局を旧堀之内町に設置したため、旧堀之内町からは多くのニーズが出てきたが、その他の地域からはほとんどニーズが上がってこなかった。今思うとこの時期に各地区の担当者を決めて足繁く被災地に出向けばよかったのだが、ニーズが上がってこない事をニーズが無い事と勘違いし、ボランティアが入らない地域をつくってしまった。逆に旧堀之内町に関してはきめ細かい支援が出来た。その結果、地域によって格差ができてしまった。それは1ヶ月後の被災地の片付け状況をみれば明らかだった。
堀之内ボランティアセンターは広くボランティアを募集せずに、口コミで広がった噂で集まって来てくれる人達だけで活動した。その理由はニーズが1日30名程度であったため、広く募集するとボランティアが過剰になってしまうと考えたからだった。しかし、実際に集まってくれるボランティアは数名であり、ニーズに応えられない状況となった。
そこで、中越センター長の山岸ブロック会長に相談したところ、川口ボラセンに毎日大勢のボランティアがいたので必要な人数だけ魚沼にまわってもらうよう手配していただいた。
このことにより、ボラセン運営がスムーズになった。中越センターがあったことにより物資、人の共有が出来たことは今回の災害ボランティア活動の大きなポイントだと思う。

 

災害に対して、どういう形で携わることになったか。(経緯について)

11月2日に「堀之内災害ボランティアセンター」を立ち上げ、11月3日から活動開始。
問題点:
・他市町村のボラセンは地震発生後2〜3日で立ち上げられたが、堀之内ボラセンは町役場がボラセン立ち上げに反対したため立ち上げが遅れた。
ボラセン立ち上げが遅れた理由:
・我々の住む地域は11月1日に町村合併したが、町村合併と震災が時を同じくしたため、役場職員がボランティアに従事する余裕がなかった。
・震災での魚沼市の被害は市全体の面積から見ると、ごく一部であったため、行政が被害の大きさを認識できなかった。

11月2日に新潟県災害ボランティア本部中越センターから小出青年会議所に連絡があり、11月3日からボランティア活動を行うので手伝いに来て欲しいとの依頼があった。ついては、小出青年会議所の理事長に「堀之内災害ボランティアセンター」の副本部長を引き受けていただきたいとの要請があり、それを受諾した。
11月3日のボランティア活動終了後、スタッフ会議が行われ、翌日からの活動について話し合われた。その会議の参加者は小出JC理事長、県外から応援に来ていただいた6名(ボランティア団体ではなく初めてボランティアに参加した人達)、埼玉県社会福祉協議会の2名、新潟県社会福祉協議会の1名のみであった。
当初からボラセン立ち上げに難色を示していた魚沼市は「魚沼市はボランティアセンターの場所を提供してくれれば一切運営に携わらなくてよい」という条件によりボラセン立ち上げに同意した経緯があり、運営において魚沼市、地元社協の協力を得ることが出来ず、100%小出JCの運営による、歪んだ形のボランティアセンターとなった。埼玉県社協、新潟県社協の職員は3日程すると他の地域に移動した。

問題点:
・本来であれば自分の地域の被災者のために行政が積極的にボランティアセンター立ち上げを行わなければならないところであるが、我々の地域では恥ずかしながら、市役所が反対するものを他の地域の方が市役所を説得して立ち上げる形となった。これは市役所職員が余計な仕事を増やしたくないと考えたことによるものであり、このことについてはいろんな場面で話しをしてきた。
魚沼市の協力を得られなかったため、各地の被害状況を一番理解しているはずの災害対策本部との連携がとれず、どの地域でボランティアを必要としているか把握できなかった。
魚沼市の災害対策本部はインフラの被害状況確認に追われ、被災者救済に目を向けることができなかった。

 

教訓

・活動のほとんどはゴミの搬出、運搬であったがどこまでの活動をボランティアにて行なうのか判断が難しかった。例えば、あるボランティアのグループはバールを持って被災住宅の解体を行なった。このことでは、確かにその家の人には感謝されたが全ての被災住宅を解体できるわけではないので、活動内容にも線引きが必要だと感じた。
・ボランティアセンターの閉鎖時期にも頭を悩ませた。集団避難していた集落もあり、雪融け後までボランティアセンターを残して欲しいとの要望が住民からあがったため、雪融け後の6月までボランティアセンターを残した。その結果、いつまでもだらだらと活動することとなってしまった。
・ボランティアに参加する人の立場、意識の違いにも戸惑った。自分で進んで参加している人、会社命令で参加している人、手伝わせていただいていると思っている人、手伝ってやっていると思っている人、様々だった。
「ボランティアに来たのに仕事がない」と怒って帰る人もいたし、「車が必要だと言われたので車を持ってきたのに使わなかった」と怒る人もいた。この方たちは「手伝ってやっている」という意識だと思う。
せっかくボランティアに来ていただいても仕事がなかったのでは申し訳ないと思い、ニーズにあわせたボランティア人数になるよう努めた。
しかし、そのことを批判するボランティアの方もいた。
ある学生は社協の事務局で「なんで魚沼市は困っている人がいるのに助けてあげないんだ」と大声で喚き散らしていた。我々は家の人にニーズを聞いてボランティアの必要が無いと言われればそこで終わりにしていたが、彼らは手伝わなくてよいと言われても、何日でもその家に通い、家の人と話しをして家の人が気を許してくれたら手伝うというやりかただった。この人達はボランティセンターの組織に入らず、自分たちだけで独自に活動していた。その結果、魚沼市のごみのルールに反する事となりその跡片付けがたいへんだった。
・ボランティア活動が長期化することによって青年会議所メンバーに大きな負担を掛けた。
私個人も1月半ボランティアセンターに係りきりになっていたので、自分の仕事が何も出来なかった。1月半を経過した頃、会社経営に不安を感じボランティアセンター運営が疎かになった。そのことでいろんな人に迷惑を掛けた。ボランティアに専念できる人がセンターを運営するべきだと思った。今後は有事に備え地域の中にボランティアセンターを運営できる人材を育成する必要があると感じている。
・今回、神戸から大勢の方がボランティアに来てくれた。それは阪神大震災で日本中の方に応援してもらったので恩返しをしたいということだと思う。今後、日本のどこかで災害があった時、魚沼市民、市役所職員が同じような気持ちになるかというと疑問が残る。
それは、魚沼市の被害が局部的なものであり、被害を受けた地域以外のひとは魚沼市が日本中の人に応援してもらったと思っていないからである。義援金をもらっていても税金から補助金を出してもらったと勘違いしている人もいる。我々の地域が日本中の方に応援していただいたという現実を伝えていくのは小出青年会議所の役目だと思っている。